Elliott Smith "From a basement on the hill"
Jeff Buckley "Grace (Legacy edition)"
60歳の人にとってはJohn LennonやJimMorrisonだったかもしれないが。
僕にとっては、そして恐らく僕の世代にとってはこの2人なのだ。
死んだのは許せないし、音楽だけが届けられることに苛立ちすら感じるが、聞き続けるしかない。何度も何度も聴いた後にまた日記に書く。
「『GRACE』のおかげで、美しいことが再びクールな事になった。これは彼の素晴しい置き土産である。(Jeff Buckley "Grace"のライナーノーツより)」
2004.10.26 (Tue) 逗子海岸
© 2004 Washio Kazuhiko
2004.10.25 (Mon) 共通の風景
土曜日、新宿・武蔵野館でようやく『華氏911』を観た。
マイケル・ムーアが残した最後のメッセージ「もう騙されないぞ」は、「私の見方の方が正しい」ということでも、無責任な評論ゲームでもない。またブッシュ個人を指している狭い話でもない。アメリカという国を動かす企業資本主義と、それによって右にも左にも自由自在に舵を切る政治やメディアからいかに自分自身の身を守るかという意味なのだと思う。
映画の中に登場するミシガン州フリントの風景は米国だけでなく、世界中で見られる「共通の風景」なのではないだろうか。それはグローバリズム、企業資本主義というテロリストにやられた土地だ。そう考える時、この映画は普遍的な意味を持つと同時に、危機感を日本に住む僕にも与える。
2004.10.23 (Sat) ジンガロ座が来る.
ジンガロ座が来る。やっとこの日本でも見ることが出来る。親しい人たちにはぜひ「体験」して欲しいと思っている。
2000年10月6日、僕はパリに居た。初めてジンガロ座を見たのは幸運にも自分自身の誕生日の日だった。その時は『Tryptik (トリプティク)』という演目で、パリ交響楽団を招いての素晴らしいパフォーマンスだった。僕にとってはかねてからの小さな夢が実現した1日となった。
そして昨年12月、新しい演目が始まったばかりのパリ・オーヴェルヴィリエのジンガロ座を訪ね、『Loungra(ルンタ)』という新しい「物語」を観て、ジンガロ座を率いるバルタバス本人にインタヴューすることも出来た。
ジンガロ座のことは多くの人が語るように「体験しないと分からない」と僕も思う。
「スペクタクル」「馬術をアートにまで高めた」などといわれても多くの人は全く想像できないと思う。僕だってそうだった。そして実際に2度も体験できた今ですら、依然僕はこの体験を人に伝えることが出来ない。仮に説明できたところで、言葉の隙間からあまりにも多くのものが零れ落ちてしまう。体験しないと分からないものが存在するということだけが奇跡的だし、やはりジンガロ座のあの円形のステージに足を運ぶしかないのだ。そのこと自体が喜びなのだ。
馬術はフランスの国技であり、ステイタスであり、アートであった。
しかしもうひとつの側面、戦争という暴力とも結びついていた。そしてそのような負の記憶と結びつく形で、伝統的な馬術は限定的な趣味的な世界へとある種閉じ込められたともいえる。
バルタバスが主宰するという形で、ベルサイユ宮殿の前に数百年の時間を超え復活した『馬術アカデミー』も僕は取材したのだが、そこで彼は馬術が持つ可能性や希望を次世代に引き継ごうとしていた。
「馬術が持つ可能性、人の感性の拡張、そして学びということ。それらを全てこのアカデミーでひとつに束ねていくということ、つまり私にとってはそれは本質的にアートを目指すということなのだ。」彼はそう僕に語った。
伝統的な馬術をアートにまで昇華するということ、それはフランスという国が持つ歴史や文化そのものを継承するということでもある。(馬術アカデミーの生徒達が使う馬具や鞍をエルメスが提供しているが、この企業の意思もそこにあるのだろう。)
そして、遂にこの日本でジンガロ座を体験出来ることになった。過去には実際に来日直前までに話が進んだこともあったが、馬の免疫(異なる土地から馬は簡単に病気を拾ってしまうのだ)等の問題で結局実現しなかったそうだ。今回の来日には本当に様々な人たちのご尽力があったことと思う。文化を引き継ぐということ、それはフランス固有の文化だけではなく、人と馬、人と生き物がつくり上げてきた文化や生活の知恵(=アート)を引き継ぐということなのだと思う。そのことを共有できる時間を感じるということが、ジンガロ座を体験するということなのだと僕は思う。
静寂の中で聞こえてくる馬の吐息、人と馬とが交感しあう刹那とその緊張感、天井を突き抜けるかのように響き上がる人の声、それが歌になっていく瞬間の恍惚。
それらを再び自分が住むこの国で感じることが出来る幸運を、親しい人たちと共有できたらと思っている。
昨年僕がバルタバス氏にインタヴューした内容は、近々このWebサイトの【dialogues】にアップする予定です。
2004.10.21 (Thu) 名古屋
急な仕事で名古屋へ。
品川からのぞみに飛び乗る。移動すること自体は苦痛ではないのだけど、その分、仕事のシワ寄せが来るのは結構大変で、今朝は朝まで先日のパリ・ドイツのレポートを仕上げていた。(といっても、なかなかそう簡単には終らない。やれやれ。)
新幹線の時間までに30分ほどあったので、朝飯兼昼飯を食べようかと思ったが、品川駅構内周辺の飲食施設の貧しさにがっかり。結局、名古屋まで我慢。
台風が去った後の空は、西に行くほどに清々しい青空へと変わって行き、今日は富士山もくっきりと見えた。空腹だがちょっと満足。
2004.10.20 (Wed) ダイアローグ
沖縄・東風平にある沖縄そばの店『風庵』のオーナー、金城男君の取材原稿を書き終えた。ダン君とは初めて僕が沖縄に行ったときからの付き合い。彼は東京でのサラリーマン生活の後、祖父母の家を自ら改装してこのお店を育ててきた。『風庵』のそばの味は勿論のこと、ダン君自身の人柄も魅力的で、僕はいつも沖縄に行くたびに立ち寄っている。
ダン君に書き上げた原稿を見て貰おうとファックスを送っていたのだ、何度送っても何故か不通になってしまうので、直接電話して見たところ、今回の台風23号の影響で電気が止まってしまっていたためと分かった。その後、無事連絡が付きほっと一安心。ダン君からの返信には、最後に「また近いうちに帰郷してくださいね。楽しみにしています。」とあった。とても嬉しいメッセージだった。
これまでに様々な機会を通し、インタヴューと写真撮影をしてきましたが、その内容を新しく『dialogues』というコーナーを設け、このWeb上でも公開していきたいと思っています。近々アップしますのでお楽しみに。
2004.10.17 (Sun) 日々へ
沖縄から戻ってきた。
出掛ける当初は天気のことも少し心配していたのだが、台風22号は進路を大きく本州・関東方面に進めたため、全くの快晴続きだった。
おかげで2日も海で素潜りをして真っ黒になってしまった。
戻ってきて、読みかけのまま放っておいた村上春樹『アフターダーク』と岡村民夫『旅するニーチェ~リゾートの哲学』の2冊を読み、沖縄での最終日に行った取材のテープお越しと原稿書きをはじめた。
その間、部屋のベッドの上では愛猫のちーこがぐっすりと眠ったままだ。そんな日常がやっぱり嬉しく思ってしまう。
2004.10.11 (Mon) 那覇
一昨日から沖縄本島に来ている。竹富島もそうだったが、那覇・国際通りもかなりの混み具合だった。そうなると自然に通りにもいろいろな人々が繰り出してくる。アクセサリー屋、イラスト、似顔絵書き、アコースティックギターを抱えた2人組、夜更けまでたむろしている女子高校生達、そんな彼女達を目当てに通りを改造車で流し続ける男達。勿論、以前から見かけられた光景だが、人通りの多さに比例してその数は増えていると感じた。
そんな中、白人の男が「私は写真家です。世界55カ国を旅してきました。旅を続けるために写真を売っています」と日本語の宣伝文句を置いて、路上で写真を売っているのを見かけた。
売られている写真は全て南の島の風景や現地の綺麗な目をした子供達の写真ばかりだった。彼はここで通りがかる人に声をかけられたり、観光客の日本人の女の子と記念撮影を求められたりしていた。何気に立ち止まって眺めていると「ワタシハ、ポーランドカラキマシタ。シャシンイカガデスカ?」そう日本語で話しかけられた。
とりあえず彼に「ちょっと見てみるよ」と目で返事を返して、その絵葉書のような写真を見ていると、すぐ目の前の国際通りを、チューンされたクルマに乗った1人の青年が重低音でダンスミュージックを響かせながら通りがかった。
すると彼はクルマに乗ったその青年を見ながら、やや吐き捨てるような感じで「彼は寂しい奴だ。ああやって毎日ここをディスコミュージックをかけながら通るんだ」と僕に言った。(あるいはそれは独り言だったかもしれない)
僕は彼のその言葉を聴いて何だか腹が立ってきてしまった。「ここで南の島の風景や少年の写真を売っている君はどうなんだ?」僕はその写真売りにそう尋ねた。すると彼は「僕はあいつとは違う。全然寂しくない。」ときっぱりと答えた。
そしてその青年から歩道に目を戻して、すれ違う顔見知りに笑顔で「ハーイ」と手を振っていた。
その写真売りに対して僕が苛立ちを感じたのは、クルマに乗った青年を寂しい奴と呼んだことだけではなく、明らかにその青年と自分とを切り離し、つまり「あちら」と「こちら」を区別し、「こちら」側から見えるものだけに頼りきった言葉を発していると感じたからだった。それは改造車で通りを流す青年の現実に対峙することを放棄した姿勢から発せられた言葉だった。
そこには「あちら」側を見てやろうという視線は感じられなかった。
それが仮にの強がりだとしても、それでは写真は始まらない。
そして彼が道端に並べている写真が誰もが否定できないような典型的な南の島の風景や美しい瞳の少年の写真だけで構成されていることが更に僕を苛立たせた。
要するに、彼は自分自身の都合で身勝手な旅をしているだけでしかない。自分の中に予めある「理想郷」だけを見ているのだ。「こちら」と「あちら」が擦れ合う瞬間にしか旅も写真も存在しない、僕はそう思っている。
それに、世界各国に行った数で勝負するようなコレクターのような旅もするつもりはない。
「でも、君はいつまでも世界を見続けることしか出来ないんだよ。」
観光客に囲まれて談笑している写真売りにそう言って、僕はその場を立ち去った。
2004.10.09 (Sat) 黒島
宿で偶然一緒になった高校の後輩I君が黒島に行くというので、僕も一緒に行くことにした。
I君のガールフレンドの方は友人が民謡を石垣の市民会館で唄うからといって1日こちらに残ることにしたそうだ。
I君と彼女は少し前に波照間島でたまたま一緒の宿になったことから付き合いだした。
2人ともそれぞれ八重山諸島を幾度も訪ねてきたそうだ。
「なんだかここの島時間が私たちには合うんですよね。」
兵庫に住むI君と東京に住む彼女とはいわゆる遠距離恋愛で、2人で一緒に島に来るのは今回が初めてだった。
昨夜夜が更けるまで八重山の島々の面白い話や、島を巡ったものだけが知っている話など、色んなことを教えてもらった。
2人とも波照間や黒島が好きだそうだ。
「何もないからいいんですよね」そう2人で話していた。
朝10時の船で石垣の離島桟橋から僕とI君は2人で黒島に向かうことにした。
離島桟橋まで彼女が見送りに来た。
I君は船の座席に荷物を置くと、すぐに船の後部デッキへと向かった。
船が離島桟橋を離れる。彼女が僕らに向かって大きく手を振っている。
I君も思いっきり手を振り返す。
船が離島桟橋をどんどん離れ彼女の姿が小さくなって見えなくなるまで、I君は本当にいつまでも思いっきり手を振り続けた。
僕がI君に「なんだか幸せそうだね」というと、「はい、幸せですから」、I君は波飛沫を飛ばしながら黒島へと加速する船のデッキの上から小さく小さくなった彼女の方を見つめたままそう応えた。
大人の男があんなに無邪気に目を輝かしている姿はそう見れたもんじゃない。
僕はそんな彼の横顔に向かってシャッターを押した。
2004.10.08 (Fri) 竹富島
早朝、波照間島の西浜で夜が明けていく前の海を見る。
そのまま朝一の船で石垣島に戻ってきた。離島桟橋に接した素泊まり宿に荷物を置くとすぐにそのまま竹富島行きの船の切符を買った。
竹富島は八重山諸島の島々の中でも人気が高く、今日も船は結構な混みようだった。
島に渡ると新しく作られた桟橋と観光案内施設、島中を巡る道路も整備されていてびっくりしてしまった。この2年ほどで訪れる観光客は2~3倍にもなったらしい。民宿も繁盛してようで以前泊まった宿を覗くと新しい部屋が増築されていた。
島では流行のアメリカンテイストの帽子をかぶった渋谷辺りでみかけるような女の子達が数人ずれで、携帯を使ってパチパチとデジタル画像を撮りながら歩いている姿を何度も見かけた。この前ここを訪れた(たった)数年前とはなんだか雰囲気が少し違ってしまったようだ。好きな島なのだが、そんな風景にちょっとうんざりしてしまい、美崎御獄(みさしおん)にお参りするという目的だけを済ませたらとっとと退散しようと決めた。
しかし、それにしてもあまりにも気持ちの良い晴天だったので、少しだけ海に入ろうかと思い浜に向かうと、そこで偶然にも後輩のS君にばっぱりと出会った。彼も一人旅をしているらしく、お互いにこの偶然に相当驚きそのまま浜に座って暫く話しをしたり、黒糖をかけたかき氷を食べたりした。
竹富島に渡ってから写真を一枚も撮っていなかった僕は、浜でS君のポートレートを撮った。
「なんだよ、お前の写真を撮るためにこの島に来たのかよ。」
そう言いながらも楽しい偶然を2人で楽しんだ。
竹富島に泊まるというS君と別れ、僕は最終便で石垣島まで戻ってきた。
宿の居間で新聞を読んでいたら別の宿泊客が玄関に姿を現した。なんと彼は高校の後輩とそのガールフレンドだった。
またしてもなんたる偶然。こういうこともあるもんだなと、その晩は宿のおかみに叱られる夜更けまで、僕らはいろいろな話をして過ごした。
なんだか不思議だけど愉快な一日だった。
2004.10.07 (Thu) 波照間島
石垣島から船で波照間島まで渡る。
ディーゼルエンジンの振動が足元から奥歯まで身体の中に響き渡るのを感じながら、船は真っ直ぐに波照間島まで進んだ。
波照間島の宿に着くとすぐに自転車を借りて島中を回った。
これまでにも沖縄の島はいくつか回ったが、波照間は特に静かで穏やかだった。
あちこちに放牧もしくは繋がれた山羊を見かける以外はひっそりとしていて、
ただ僕と同じように自転車で島を回る観光客だけが、そんな時間の流れのなかから取り残された弱くて不恰好な存在に見えた。
日本最南端の碑の先に波が打ち寄せ砕ける光景を見た。
砕ける波のすぐ前までゆっくり岩場を降りていき、しばらくの間、目の前でその光景を見ていた。
夕方には曇りがちだった空も真夜中12時過ぎには、夜空は星空で一杯になった。
三脚とカメラと泡盛を抱えて星空の下を歩いた。
何十分もの間シャッターを開けっ放しにしている間に、蝙蝠が3匹頭上を飛び、星がひとつ流れていった。
中学生の頃聴いていたロックミュージックの一節にあった「満天の星空」という言葉を
今夜初めて実際に僕は見た。
2004.10.06 (Wed) 石垣島
羽田から石垣島に着いたのは既に夕方4時を回っていたので、波照間島行きの船の最終便は既に出てしまった後だった。
仕方なく宿に荷物を置くとすぐに石垣島の離島桟橋の方へカメラを抱えて歩いて行った。
殆ど水平に近い位置から差し込んでくる夕陽は鋭くアスファルトの道を照からしギラッと照からせていた。 しかしそれもほんの僅かな時間で、すぐに辺りは薄暗くなってしまった。
そんな僅かな時間に桟橋近くで僕は何枚も写真を撮り、完全に暗くなってしまってから近くのそば屋で八重山そばとジューシーという夕飯をたいらげた。そんな風にしてまた今日でひとつ僕は年をとった。
2004.10.05 (Tue) around the sun
今日は午前中に、神奈川県・逗子市の長島一由市長にお会いした。
1時間ほどインタヴュー、そしてポートレートも1カット撮影させて頂いた。
その後、いくつかの仕事を片付け、不在中に届いていた沢山のメールを全部読み、
返事を書いた。
東京はずっと雨が降っていて、だんだんと肌寒くなって来た。
というわけではないのだが、昨夜ドイツから帰国したばかりだというのに、明日は沖縄へ向かう。
しかし沖縄方面にも台風が向かっているそうで、もしかしたら東京にいるよりも酷い目に会うのかもしれない。
無事、波照間行きの船が出港してくれるといいのだけど。
PS. REMの新譜『AROUND THE SUN』を聴く。静かで強い音楽。
マイケル・スタイプのように唄えたらなんて最高だろうな。
2004.10.04 (Mon) 帰国
夕方、成田に着いた。
そのまま仕事の打ち合わせに行って、さっき家に戻ってきた。
口内炎が出来て酷く痛む以外は体調も全く問題なし。
口内炎が出来るというのは、まあ少しの疲れと栄養不足なのだが、パンが主食の生活はあまりいいもんではなかった。何故かって、とにかくいつもよりも明らかにチカラが出てこないのだ。喰った先からすぐにエネルギーを消費してしまいどうも持続力が維持されない。
米を喰ってないと駄目だな、と今回改めて痛感した。
実際に戦後日本の学校給に米ではなくパンを導入したのは、あのマッカーサーで、彼は戦前の日本人が小柄でも体力を兼ね備えていたのは米を主食にしているからで、戦後の日本人の体力低下のために給食にパンを導入させたそうだ。
こういうことだけにはアメリカ人は天才的に悪知恵が働く。
全く困った話しだが、果たしてマッカーサーの思惑通りになってしまっているのも事実だろう。
ということで、久々の白米の飯は本当に美味かった。
さて、欧州滞在中は不通だったために更新できていなかった日記も再開。
ついては、10月1日、Stuttegart(独)での珍事件をアップしておいた。
そのうち随時アップしておきたいと思っています。
2004.10.01 (Fri) 記念写真
ステュットガルト(Stuttgart)は南ドイツ第2の都市。
この町でちょうど行われているBeerFestivalといういかにもドイツらしい祭りと、週末とが重なっていたため、ベルリンからの夜行列車は寝台の席が満席で、僕は普通席に座ったまま9時間かけて殆ど眠らずにこの町に明け方到着した。
町並みはいわゆるヨーロッパの中規模の地方都市といった趣で、以前にもたしか英国の地方都市を訪れた時に見た風景と似ている気がした。特に眼を引くものもなく、Sバーンを途中下車してはあちこちと目的もなく歩いてみた。
地元にも立派なブンデスリーガのサッカーチームがあるらしく(それがどの程度人気でどの程度強いチームなのか全く知らないのだが)、そのチームのスタジアムもなかなか立派で、お揃いでサインだらけのユニフォームを着込んだ親子が練習明けの選手をゲート前で待っていたりして、何か華やかな欧州サッカーのひとつの光景を見たような気がした。
サッカースタジアムの隣にはメルセデスベンツの本社があり、敷地の中にはベンツミュージアムという立派な建物もあった。ミュージアムを覗くと、世界で最初のバイク(!)、そして世界で最初の車も置いてあり、特に世界で最初のバイクというか動力付き自転車には何か胸の奥の方がチクチクと刺激されてしまった。
ミュージアム内には多くの観光客が詰め掛けていて、中国人の大学生らしき集団も何やら大声で楽しく話ししながら歴史的記念碑を見て回っていた。
一通り見終えて、電車の駅まで歩いていると先ほどの中国人集団に出会った。駅のホームについて電車待ちをしていると、その中の血の気の一番多そうな学生が僕の眼の前に立って僕を見下ろしていた。最初は気にも止めずにいたのだが、しばらくしてもじっとこちらを見ている気配がする。見上げると、彼は何かその多い血の気を顔一杯に充満させて鋭い眼で僕をじっと見下ろしていた。
「何か用かな?」そう僕がいうと、「なんだって?なに豚みたいな話しっぷりでしゃべりやがるんだ。アーソウソウ、ヘー、ドモアリガトゴザイマス? お前は豚みたいな奴だ」
彼はいきなり僕に向かってそう言い放った。
あまりのアホらしさと、昨夜から結局ほぼ2日間寝ていなかったこともあって、その挑発的な言葉に乗る気もせず彼とその仲間に向かって、どっか行けよと合図だけして無視していると、更に彼は僕に突っかかってこようとした。どうも連中の中では奴だけがその気らしく、仲間は逆に彼を制止しようとしていた。結局僕と連中は同じ電車に乗って町の中心の別の駅でお互いに降りた。連中のことはそのままにして僕は僕で市街地を散策しようと歩いていったのだが、やはりどうしても府に落ちず、何か忘れ物をしたような落ち着きのない気持ちをずっと抱えながら町中を歩いて回った。しかしやはりその気持ちには逆らえず、途中から僕は同じ駅で降りた連中を探しながら歩くことにした。そんなに大きな町ではない、連中が行くような場所もある程度は目星も付く。1時間くらい探しただろうか、ファーストフードの店内で談笑している連中の姿を僕は見つけた。
僕はすぐに店内に入って行き、僕に悪態を付いた奴の隣に座った。
先に他の仲間達が気付いたらしく、彼らは少し驚いた表情で僕の姿を見た。悪態をついた本人も同じく僕の姿を見て何が起こったのかわからないようなあっけにとられた顔で隣に座った僕の姿を見た。
「何か用か? 何しに来たんだ?」
少し緊張した表情で彼は僕に言った。
「話しをしに来たんだ。1時間も探したよ。あんな感じのままだと気持ち良くないだろ?」僕は笑いながらそう彼に言った。
彼はまだ事態を上手く把握できていないようだった。だから僕は僕から彼に話を切り出した。
「何を言いたかったんだ? 何をそんなに怒っているのかな。僕は今日初めてこの町に着いた。そして君らに会った。なのに君からはあんな言葉を聴いた。僕が何者で何をしているのか、全部話そう。だから君のことも話て欲しいな。」
そういって僕は自分のこと、自分の仕事、何故この町にいるのかを全て先に彼に話しした。
彼はようやく緊張が少し解けたような顔をして僕の話を聞いていた。
「あなたに悪いことを言ったと思って反省している。あなたはあんな僕に会うために、話しをするためにここに来た。すごく勇気があるし、正直その勇気には驚いている。僕はあなたではなく、あなた達日本人が嫌いなんだ。だからあんなことを言ったんだ。あなたには責任はない話だ、でも日本人という連中は....」
そこまで彼が話したとき、仲間達は一斉に「お前、それは言っちゃ駄目だ!」と大声で彼を制した。
僕にも彼が何故僕に向かって悪態をついたのかようやくその理由がわかった。
そして僕には彼がそのような感情を抱く理由も正直言って理解できた。
その後、僕と中国から来た学生達は話しを続けた。
彼らの中には確かに日本という国に対して複雑な感情が交差していた。彼らはそれぞれに日本に対して思っていることを素直に僕に話しはじめた。話しはじめると止まらないほどだった。それぞれがとても熱心にこんな僕に自分の思いを話してくれた。僕らはそうしてしばらく一緒の時間を過ごした。
僕は彼らの話を一通り聞いた後、彼らに話しした。
「確かに過去にあったことを無視は出来ない。僕も無視はするつもりはない。でも、ここで一緒に話しをしているこの現実を僕は現実だと思うことから始めたい。こうして話しをして一緒に時間を過ごした。この目の前のことを僕は現実だと思っている。君たち自身の存在が現実だ。君たちは日本人の友人はいないっていった。だったら僕が友人になるし、僕の友人も紹介したい。日本に来て欲しいと思う。それでもきっと日本の気に入らないところもあるだろう、でももしかして気にいるところもあるかもしれない。でもまずは君らの眼で見て欲しいと思う。僕も中国にはまた行きたいと思っているし、同じように僕自身の眼で見たことを頼りにしていきたいと思っている。」
そういって僕のEmailのアドレスを彼らに渡した。
僕に悪態をついた彼は少し顔を赤らめて僕の話を聞いていた。
「じゃあ1枚、写真撮ろうか!」
そう言って僕はみんなを集めた。その彼は「ちょっとトイレへ」って言ったまましばらく帰ってこなかった。僕は敢えて彼をそのままにして、残りの皆と一緒に記念写真を撮った。
そして、この写真が今回のヨーロッパの旅でただ1枚の記念写真になった。