2009.04.29 (Wed)  travelogue #18 竹富島へ


(Taketomi Island, Okinawa. 2009.04.)

沖縄にある御獄(うたき)とは、神が降りてくるとされる聖域であり、地域の祭祀の舞台となる場所。これまでに多くの御獄に足を運んだが、中でも竹富島の美崎御獄(みさしおん)は僕にとって特別な場所だ。島の北部にあるこの御獄には航海の安全を祈願して竜神が奉られている。森の中にぽっかりと丸くサンゴでできた竹富島特有の白い地面が開けている。森の木々の隙間を海風と潮騒が吹き寄せてくる、本当に心地の良い場所だ。この初めて訪れたのは2002年4月。その時僕はこの聖地でとても不思議な体験をした。静かな森の中で精霊に出会ったのだ。それ以来、この島に来る度に僕は必ずここを訪れている。かって出会った精霊に近況報告をするために。

その神司(かんつかさ)の装束の老婆が現れたのは、僕が美崎御獄の森の中で本を読みながらうたた寝をしてしまっていた時だった。老婆の他に、彼女の肩を抱きながら付き添っている女性、線香、米、酒などの祭祀道具を抱えた男性とその妻だろうか、合わせて4人の家族連れのようだった。
「これからお祈りさせていただきますからね。傍でご覧になっていて結構ですよ」
その女性は老婆の娘さんらしい。彼女は持参した折りたたみ椅子に母親をゆっくりと座らせてから、その場を外そうかどうかと少し躊躇していた僕の方をおもむろに振り返り、そう言った。
僕はしばらくの間、4人が祈りを捧げる後ろ姿を、少し離れたところから静かに眺めていた。

「竹富島は初めて?」
お祈りが終わり、祭祀道具を片づけている4人の様子を見ている僕に、娘さんはにこやかに話しかけてくれた。
「もうこの数年何度もこちらには来ています。初めてここに来た時から、何か他の場所とは違う心地よさを感じて、竹富島に来る度にお邪魔しています。さっきまでこの森の中で本を読んでいて、あまりに心地よさに居眠りしてしまっていたところでした。」
僕がそう応えると、彼女はふくよかな微笑みを浮かべて、そうとてもいいところでしょと、隣に座っている母親の肩にそっと手を置いた。その言葉の意味を彼女自身も改めて確認しているように。
「神司の装束ですね。とても綺麗ですね。」
お婆さんのポートレートを撮影させてほしいと尋ねると、あとで一緒に家族全員の写真も撮ってくれますか、と彼女は快く引き受けてくれた。そして母親の傍らにしゃがみ込んでその耳元に「このお兄さんがお母さんの写真を撮ってくれるって」と大きな声で語りかけた。

僕は何枚かその老婆の写真と家族の写真を撮影させていただいた。老婆は耳だけでなく目もあまり見えていないようだった。ファインダーを見つめていても、彼女の目はファインダーを通り越し、御獄の森の向こうに広がる蒼い海を遠く眺めているようだった。僕はその瞳に惹きつけられた。とても深い蒼だった。

「母は耳も遠くなってしまったし、今ではもう目もほとんど見えないんですよ。それに何年も前から癌も患っています。母は神司という役目を頂いていたのに、この年になるまでその大切な仕事を果たさずに来ていたのです。そのためでしょうか、これまでに様々な病気を患ってきました。腎臓、肝臓、癌は全身に転移し、末期癌と診断され、おまけに目も見えなくなってしまいました。しかし5年前から、遅ればせながらこうして神司としてお役目を果たすようになり、今ではここに参ることもできるようになったのです。目が不自由ですので、家族のものが付き添わなければなりませんが。」
そうして彼らは定期的に竹富島のいくつかの御獄を巡拝して回っているという。
「でも、とても顔色がいいようですね。僕は昨年癌で父を亡くしましたが、あの時の父の顔色と比べると、とても癌になっている人だという気がしませんね。」
「不思議でしょ。でもこの島ではこういうことは起こるんです。」
確かに不思議なことではないだろう、この島では。ここでは「それ」は確かに起こりうることなのだ。

そして僕は数年前この御獄の中で出会った精霊のことについて話した。すると、それまで殆ど微笑むだけで何も話さなかった老婆が、おもむろに僕の方を見て(正確にいえば、僕のほんの少しだけ背後の空間を見て)、静かに口を開いた。
「お兄さんが見たのは、丸くてふわふわしたものだったでしょ。」
「はい、そうです。とっても柔らかそうな羽毛を纏った大きな玉のような。真ん中に大きな2つの目が開いていて、あの辺りの木々の間から僕の方をじっと見つめていました。」
「そうね。あなたも見えるのね。あなたの後ろにはそれは今も浮かんでいますよ。それは竜神さまです。鯉のぼりも見えますよ。あなたには竜神さんがちゃんとついているのね。」

「母には見えるようですね。今日こうして出会えたのも何かの繋がりでしょう。」
娘さんは老婆の肩を抱きかかえながら、あの素敵な笑顔で僕に微笑んだ。
「いつでもここに帰ってきなさい。いつでも、この島に。」
そうこの島にまた僕は来ることになるのだろうな、と思う。
静かに微笑みかける老婆の瞳には、深い蒼色の海が広がっていた。



2009.04.14 (Tue)  井上雄彦『最後のマンガ展重版(熊本版)』

井上雄彦さんの『最後のマンガ展重版(熊本版)』のオープニングレセプションに出席するために熊本まで出掛けた。昨年の上野での展覧会開催中は東京にいることが少なく、結局足を運ぶことができなかったので、熊本での開催が決まったというご案内をいただいた時は本当に嬉しかった。展覧会の内容については、やはりここで書くことはやめておこうと思う。なぜなら、やはりあの場所に身を置く経験に対して、どんな言葉も不足であり不要だから。その場に居合わせることでしか得られないものは、そのようにして求めるしかないのだし。その代わりに、その場で僕が感じたことだけを書き留めておきたい。実際にこの展覧会を体験しなければ、きっと何のことだか分からないと思うけれど。

会場は光と闇の回廊のようだった。その中を、微かな光に照らされた道をゆっくりと歩いていく感覚は心地よく、雑誌や単行本を開きそこに繰り広げられる世界に対峙している時に覚える適度な緊張を伴う高揚感とは全く異質であった。そしてその「心地よさ」は、なにかとても「大きなもの」だった。この感覚は何なのだろうかと、何度も展覧会場を廻りながら僕は考えた。様々な人が交差していく世界、その中に続いていく曲がりくねった一本道。人や自然とのつながり、自然時間の流れに身を任せるような感覚。静かで、親密で、そして見えない何かに包まれているような。
何故だか、切り立った険しい谷底で音も立てずに流れている河を、小さな船でゆっくりと下っていく自分の姿が浮かんできた。その一本道はまるで産道のようにも思えた。だからなのだろうか、あの心地よさは。見る見られるという関係を超えていくという新鮮な高揚感。丁寧で緻密につくられた会場構成のクオリティが、そうした感覚に素直に没頭させてくれた。

熊本で新たに「闇の部屋」が追加されたことは、決定的なポイントだったと思う。その意味で今回熊本で初めて見ることができたのは幸運だった。僕は上野を見ていないし、上野と熊本とはきっと比較すべきでもないことだとは思うが、それでも。

「闇があって光が生まれる」。そのテーマそのものにもとても激しく共感した。共感というよりも必然的な符合というか。実は4月10日当日に発売された雑誌「COYOTE」に僕は同じテーマでコラムを寄せていた。それは西表島の染色作家・石垣昭子さんの手仕事、自然から色を頂くということについて書いた文章だったのだが、そこで僕は「闇の濃密さが、眩い光を生み出すのだ」ということを書いていた。それは他者についての文章でありながら、同時に今強く僕の中で響いている言葉であった。深く深く潜った先にやっと見えた「言葉」だった。だからこのフレーズがここでもリフレインしていることに驚くと同時に、とても不思議な巡りあわせを覚えずにはいられなかった。
「闇があって光が生まれる」。僕は展覧会を見終わった後も、一人レセプション会場の片隅でそのことを復誦し何度も何度も飲み込んだ。

人をあやめたり、傷つけたり。誤ったり、見失ったり、傷づけられたり、憎まれたり。人はとても未熟な存在なので、時にそうしたことが起きてしまう、招いてしまう。しかし現世では結果的に不幸に終わったとしても、もしも互いがそこに本当の「光」を見出そうとする気持ちがあるのであれば、諍いや対峙を超えて、いつかは手を取り合うこともできる。そして、死ぬ間際に残るのは、そうした光と闇の先をともに見つめようとする関係、繋がりだけなのではないだろうか。そこに孤独や疎外、あるいは小さな自分のエゴや欲望を乗り越えていく本当の道があるのではないだろうか。バガボンドという物語をとおして井上さんが描かれてきたものは、そうした人間の生き方を大きく強く肯定することだったのではないかと感じた。
逆に言えば、孤独や疎外、喪失、不安、その強迫観念に急き立てられ穴埋めばかりしているような生き方では、結局はその孤独や不安からは本当には抜け出すことは出来ない。華やかで快適で煌びやかな世界だけを眺めているだけでは「光」は手に入らない。闇を切り捨てた光などないのだ。
深く深く潜っていくことは、とても息苦しいことだけど、本当の「言葉」はそうしないと得られない。眺めているだけでは、「言葉」は言葉として響かない。もちろん、そうした生き方は体力や気力がいる。誰もがそうあるべき、そうすべきではないのかもしれない。でも僕は(とても個人的に)そのような生き方の中に勇気や希望があると今回の展覧会を通して改めて感じざるを得なかった。
何故なら闇の先に見えた光に、僕はとても大きな心地よさを感じとることが出来たから。それは「幸福」へと続く産道だったのだと思った。
「闇を受け入れるからこそ、光をみることができる。」
今日この場所に来れたことは、やはり今の僕にとってはとても幸運な巡りあわせだったと思う。

内見会終了後、関係者で混み合うセレプション会場の様子を隅の方で遠巻きに見ていた僕に、井上さんの方から声をかけてきて下さった。昨年の上野での展覧会のことなど、一切の前情報は見ないようにしてきたこと、まっさらな状態で観たいと思って来たこと、そして光と闇について話すと、井上さんはとても喜んで下さった。また今度ゆっくり話をしたいですね、と。

この会場でみつけた「言葉」を自分の真実にできるかどうかは、僕自身次第なのだと思う。
光を見るために、僕はもっとタフでなければならない。



2009.04.11 (Sat)  travelogue #17

深く潜るほどに
光は煌めく。


(Mt.Aso, Kumamoto. 2009.04.11.)



2009.04.04 (Sat)  travelogue #16

見つめるほどに
春は華やぐ




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