1999.11.23 (Tue)  TONY GATLIF "Gadjo Dilo"

Gadjo Dilo.jpg

「どうか、この大地を二つに割ってくれ。」 老人は地面の頑固さを確かめるように踊った。 何度そのコトバを繰り返しながら、彼は地面を踏みしめ続けた。 コトバはぎこちないステップに追い付き、徐々にゆるやかなシンコペーションを産んだ。 そして、彼のコトバを躍らせ、変拍子のリズムへと変わり、 やがて「音楽」になった。

「音楽」が生まれる瞬間。
それは決して用意周到に準備されたオーケストラによって鮮やかに 響かせられるのではない。 少しずつ、少しずつ、おぼつかない足元が、硬い地面に反発しながら、徐々に跳躍力を獲得し ぎこちなく回転しつづけた果てに、重力の鎖から微かに解き放たれ、 それは、振り絞るように生まれてくるのだ。

来る日も、来る日も、 朝日と夕陽は、彼の土色の髪を輝かせ、 いくつもの彼の靴を履き潰させ、 そこに数え切れないほどの縫い跡を残させる。 何も変わらない毎日の中で、何も変わらない 悲しみの中で、だからこそ 「音楽」は生まれる。 そうして生まれた「音楽」は圧倒的な美しさを 奏でることが出来る。

99年の初めに公開された『GADJO DILO』をもって、『LES PRINCES』(83), 『LATCHO DROM』 (92)と続いた、トニー・ガトリフ監督の「ジプシー3部作」が完成した。 (先の映画は日本では 未公開なため、実際に僕が見られたのは今のところ『GADJO DILO』、『MONDO』、『海辺の レストラン』だけなのだが。) 『MONDO』の中では、どこから来たのか誰にもわからない少年 がある港町に、そして『GADJO DILO』では、フランス人の青年が、追い遣られたロマ居留区に、 父親が愛したロマの歌手を探しに入っていくところから物語は始まる。 そこでは、お互いが STRANGERであり、はじめから「話せば分かりあえる」という状況は失われている。 彼の物語 で唯一機能しているのは、少年の輝く優しさと透き通った強さを湛えた瞳であり、無名の人達 が悲しみと喜びを奏でる音楽なのである。 そこには、救いや慰めや癒しや説得や争いや懇願 や言い逃れのための「コトバ」は存在しない。 彼はそんなものを信用してはいない。 むしろ彼 はそんな「コトバ」が存在しないという場所から、物語をはじめる。 そして、少年が突然港町か ら消えた瞬間に(『MONDO』)、またはフランス人青年が自ら録音して集めたロマの人々の音 楽テープを最期には粉々にした後、それを埋葬した土の上で踊り出した瞬間に(『GADJO DILO』)、 僕はついに目撃する。 閉じ込められない想いが、止めど無く流れたその時、そこには確かに「美 しい音楽」が生まれるということを。  そこには、「世界の果てにこそ未だかって見たことがない美 しい光景が存在する」という希望を。 そして、それを目撃した後には、狂おしいほどにその「音楽」 と「風景」に渇くことになる。 その熱に魘され、掻き乱され、もう居てもたっても居られなくなる。

トニー・ガトリフの映画はそれほどまでに美しく、そして僕を只管に掻き乱す。 引っ掻きまわした 挙句に、こんな僕にさえ希望を与えてくれる。 心から、ではなく身体から、「美しい音楽」に渇い ているのなら、世界の果ての美しい風景に手をかざしたいのなら 彼の映画をせめて見たほうが いい。

ROMA and their music
ロマ ジプシーというと、スペインをすぐ想起してしまうが、旧ユーゴ、ルーマニア、ブルガリアといったバルカン半島地方にも、ジプシーと呼ばれる少数民族が数多く存在する。(というか、世界中に存在するのだけど。) 今では「ジプシー」という呼び名に差別的なニュアンスがあるために、彼らは自らを「ロム」「ロマ(複数形)」と呼ぶ。(「ロマ」とはトルコ語で「人間」という意味。)  ロマの歴史は常に虐待の影が大きく覆い被さっている。それは彼らが非定住民であり、各地で差別・迫害される存在であり続けているからだ。ナチス時代のルーマニアでの強制移住やジェノサイド(大量殺戮)、最近では「民族浄化」の被害者といわれるアルバニア系住民に、更に弱い立場のロマが、ともにコソボを追われ逃げ込んだマケドニアの難民キャンプ先で追放を受けている。 1980年の推定で、当時のユーゴスラヴィア内には75万人のロマが住んでいたという(『世界大百科事典』平凡社)。他の地域同様、ユーゴでもロマは差別される立場にある。 

国際ロマ連盟

世界30か国の団体を傘下に収め、共通の言語と文化をよりどころに1200万人のロマの連帯を訴える。反ジプシーの人種主義者に対する戦いも重要な仕事。

欧州ロマ権利センター
欧州ロマ権利センターは、各国で起きた事件を伝えロマの権利擁護を訴える。

ロマ・ミュージック
ロマ(ジプシー)の人達が奏でる音楽は、バルカンの呼び名では「ホロ」「ホラ」「コロ」「オラ」などと呼ばれ、冠婚葬祭をはじめ彼らの生活の中で無くては鳴らないひとつの生活基盤として存在している。実際、彼らロマの人々はそのほとんどがミュージシャンであり、ガトリフ作品の『Gadjo Dilo』の音楽を担当している、「世界最強のロマ楽団」である『タラフ・ドゥ・ハイドゥークス』では少年から老人まではひとつの「家族=楽団」として彼らの血と文化に根ざした歌を、圧倒的なテクニックによって奏でている。 実際、ハイドゥークスのメンバーの出身地はルーマニア・ワラキア地方のクレジャニという人口3000人の小さな村で、その中に住むロマ300人のうち実に50人以上が音楽に従事しているそうだ。 まさに音楽そのものが生活であり、生活そのものが音楽という必然の中で奏でられてるのが、ロマ音楽といえる。 ガトリフ監督作品や、『ジプシーの時』『アンダーグラウンド』『黒猫白猫』等のエミール・クストリッツァ監督作品で、今注目され始めているものの、バルカンのロマ音楽情報自体はまだ非常に少なく、恐らく日本盤としてリリースされているのも、これら各映画のサウンドトラック盤を除くと数枚程度なのが現状ではある。



1999.11.14 (Sun)  Vincent gallo

元気ですか。 ようやくこの半年間(ほんとにそれはあっという間に過ぎたんだけど)携わってきたプロジェクト「LIVE,LOVE,DRIVE」が昨日無事終わりました。
今回は何より僕にとって2人の大切な友人、アーティストのヴィンセント・ギャロとミュージシャンの大沢伸一さんとの出会いと協力があったこと。そして彼らと一緒に過ごせた時間が一番の大切なものとして残りました。 2人には心から感謝しています。 きっとこれからはどんどんヴァーチャルな世の中になっていくだろうと思います。ある人は僕とヴィンセントで創った映像があまりにも70年代っぽすぎて今のデジタルな映像世界には合っていないしオーディエンスはそんなものは求めていないといいました。でも僕は彼がコマーシャルな、トレンディ(死語だね)な視点から、もしくはビジネス的な視点からそんな発言をしている、もしくはそんな言い方でしか話せないと思っているので何も不安にはなりません。ヴィンセントが16mmのコダックのカラーポジフィルムを使用して、ある意味古臭い映像に拘ったのは彼なりのリアリティの掴み方、この1999年という年を見据えてのことだと思っているし、僕はそのアプローチを正しいと思っているのだから。

1999年という年は、小学校のころ「僕はこの年に死ぬんだ」と本気で思っていた年でした。今思えばホント馬鹿な話なんだけど、その時は何故か真剣にそんな馬鹿なことを考えていたんだね。この1999年にひとつの物語を残すことが出来たことは、僕にとって他のなによりも重要な意味を持っています。
今は得たものが零れ落ちないように、しっかりと反芻しながら、次ぎの企みを考えていくときだと思っています。 正直、ちょっと放心気味だけど。
Vincentは「もう1回一緒にやろう」っていってくれたけど、そういうことも将来はありえるかもしれません。僕は再会を誓ってその間自分なりにがんばっていきたいと思っています。
彼は最後の日、空港のロビーで、一緒に作った写真集の全ページに、僕の名前「KAZ」って書いてくれました。1ページ1ページ、彼は僕の名前を何も言わずに書き込んでくれました。
それ以外何も言わなかったけど凄く嬉しかった。

さて次ぎからはどうしようか。ちょっとじっくり考えてみます。ではまた。



1999.11.11 (Thu)  MESSAGE ON THE BOOK

元気ですか。 少し前からも話していたことけど。 ここ最近どうしても抜け出せない「気分」の中にいました。 なんか「空っぽ」な感じ。 そう思うのは、多分、今まで蓄えてきたものを出し切ったからだと思うし、 それはそれでいいんだけど、 じゃあ、これからはどうすればいいだろう、という不安が、後から逆にどんどん大きくなって。 今まで感じたことのない不安に一気に襲われてしまったわけで。 でもそんな恐怖は、まだ自分が所詮「しれてる」程度だからなんだけど。 人の優しい言葉も嬉しいけど、それは所詮僕自身じゃない人の言葉でしかないし。 こんな感じでした最近は。 さて。何が出来るんだろうか。 決して、ネガティブになっているわけじゃないけど。 最近は少し吸収力が再び高まってきている感じがしてます。 というのも、I'm Nothingってことを自覚したとたん、今までとまた違う「アプローチ」でものが見れるような感覚もしてきたからです。 僕の友人(それは例のBARTABASの話の中で書いた女の子) が以前僕に話したことがある。 「あなたが他の人をもっと受け入れる時、あなたの写真はもっと良くなる。」 ってこと。 彼女の言葉を僕は今思い出しています。 自分では「まあそりゃそうだろ」って充分そのつもりだったんだけど。 今回は彼女の言葉が少しわかった気がしてます。 なんか、ようやくって感じでもあるんだけど。 ほんと、遅いですね。 もう2000年もまじかです。 君はどうですか。 じゃあ。また。



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