真夜中、手の打ち所がないほど荒れた街路。 燃やされているクルマ、次ぎの一歩もなくただ座り込んだ人達。干からびた道路。 派手なメイクの女を口説く太ったこの上なくセンスの悪い色のスーツを着こんだ男。 殺し屋は、盗んだ車で静かに絶望に行き場のなくなった人達の群れの中を静かに滑っていく。 そこは自分が下手をすると入り込んで抜け出せなくなる場所であることを彼は知っている。 彼の目には流れる赤や黄色の光が映り込んでいる。 でも彼はなるべく感情を表に出さないでクルマを運転する。 ささいな心の揺れですら、すぐに「彼ら」の餌食になることを彼は痛いほど知っている。 そして自分は弱い存在だということも良く知っている。 だから、盗んだ車で極めて効率的に無駄なく「仕事」をこなすだけだ。
多分、そこはNYなんだろうけど、同時に、それは僕や君の住んでいる場所でもある。 COOLになりきること自体が全くCOOLでないという時代。 スタイル? マックで80 円で売ってんじゃないの?って時代。 誰もが皆「私、私、ワタシの~」と、気安く「薄っぺらいワタシ」を排泄している時代。 殺し屋はどこか冷酷にはなりきれない。 彼はそもそも殺し屋なんかにはなれない。 それにそもそも殺し屋になることを選んだわけでもない。
殺し屋であることに快楽を感じているわけでもない。 仕えているボスは情けない。それは彼もわかっている。 使命があるのではない。 行き場があるわけでもない。 抜け道があるわけでもない。 ハッピーエンドは最初から存在しない。 彼の姿はむしろ滑稽ですらある。
そんなことも、勿論最初から分かっている。 ただ、「そうしなければいけない」から、そうしているだけだ。 生きていくこと。ただひたすらに「私」として生きていくこと。 しかし、そして、そのことに自覚的であるという、まさにその一点だけで、彼は救われている。 救われたいと思っている。だって「私」なんてそもそもないんだから。 人類史上最高のテクノロジーが近くのスーパーで手に入る時代が来たってことは、 本当はサバイブすることが簡単になるはずではなかったのか。 いくら彼が救われているとしても、生きることはこんなにも困難になったのか。 それとも、それはもうはじめからそうなのか。
エンディング。自らが予想していたことのように、彼は最後の瞬間を迎える。 そして、ただ一言彼は言う。
「見たいものは、全て見た。」
ジャームッシュの視線の温もりと優れた演出力は今更ここで評価するまでもない。 そんなこと分かりきった上で、堪らなく好きで観てんだから。 でも、僕はふと思う。 彼が虚ろな視線を投げかけていた荒れた街路には、 結局なんの役にも立たずに使い捨てられた、そんなサバイバルキットの欠片が いまだ置き去りにされているということを。 そして、この物語は僕らの物語だということを。
1999.10.17 (Sun) 焚き火
元気ですか。今日藤倉と2人で海へ行ったんだ。昨日の夜は二人で下北沢に出掛けて、南口で関西風お好み焼きを食べた。 「豚モダン」を一人2皿と、スジ塩を二人で分け合って腹いっぱいたいらげた。 下北沢というと、広島風が有名、でも悪いけど、圧倒的に関西風の圧勝だ。 そりゃもう、冷静に客観的に、事実は事実。 今日は2人で写真を撮りにいった。 もちろん写真は僕だけであって、「いい天気だからドライブしようぜ。いいぞ、海。」って、 京都に帰る予定のフジクラを誘って、奴のクルマで出掛けたわけだ。 2時間かけて、平塚に着いた。いつも僕が写真を撮りに来ているところに彼を連れ出した。ようやく観光客が消え、地元のサーファー達のクルマだけになった駐車場の横の、いい感じに 寂れた食堂で、もう1週間くらい煮込まれたって感じのカレーライスと、冷えたビールを 頼んだら、最高にPEACEな気分になった。 そして僕は食後の煙草をふかしているフジクラを撮るわけだ。 フジクラはただもうスイッチが切り替わった(というか切れたというか)ように、 何時間もただ「ええなあ。なんかええなあ。」とだけいいながら、防波堤に座り込んだままだった。 僕は相変わらず地元の悪餓鬼どもを見つけては一緒に遊んでシャッターをきり続けてる。 まあ簡単に言えば「変な関西人二人」だな。夕方になっても、帰る気がしないんだよな。ISO100のフィルムを増感設定して、無理やり撮りつづけてた。 最後は二人で焚き火をしたんだけど、自然に近くの漁師の親父も集まってきてちょっとした宴会になってしまった。いつも写真は一人で撮っている。 たまにはこうして親友とのんびりするのもいいもんだな。