鷲尾和彦

映画『島の色 静かな声』によせて

闇。曖昧で抽象的な闇ではなく、全ての光と色をたっぷりとはらんだ原始の闇。その濃密な闇の中から月明かりがそっと放たれる。幽かな光の下で色が輝き出す。そして映像は静かにこの世界の有り様を語り始める。言葉が生まれる以前の世界を。ゆっくりと、とても静かに。
 
「神は光の中だけにいるんじゃないのよ。闇の中にも神はいる。そして、ここには今でもそんな闇が確かにあるの。」
 
聖地・ウナリ崎に向かう道すがらに聞いた昭子さんの言葉を僕は思い出す。昭子さん金星さんご夫妻に初めてお会いしたのは、ちょうど今から1年前、2008年の早春だった。昭子さんが主宰されている西表島の織物工房「紅露工房」で、地元の子供たちと一緒に、糸芭蕉の繊維で織りあげた布を藍染めしたり、島に自生する糸芭蕉、葛、竹などの植物をつかって遊び道具をつくったりして数日間を過ごした。
 
着るものから、食べるもの、遊び道具まで、全てを自然の恵みから頂くという、万葉の時代から綿々と続いてきた暮らし。そこでは誰もが生きる知恵と技術を持っている百姓であり、芸術家であった。僕は西表島の子供たちと一緒に、その生き方について学んだ。
 
作品の中で、昭子さんは「はた織り機に糸をかけるその前に、一番大切な仕事は終わっている」と語る。織ることは「見えるプロセス」、人の手が作り出すことが可能な領域のこと。しかし本当は「見えないプロセス」にこそ大切なものがあるのだと。そして「見えないプロセス」とは人の手が及ぶことがない自然の領域、神の領域にあるものだ。
決して自然を人の身の丈に合わせようとするのではなく、目の前にある自然をそのまま受け入れ、その恵みを味わい、心を響かせ、そこに自分自身の思いを編み込んでいくこと。そんな「見えないプロセス」によって布は織られていく。
目に見えない世界から糸を、色を、かたちを紡ぎ出そうとする昭子さんの指先をカメラは静かに追ってゆく。まるで母を見上げる幼子のように。
世界はいつでも目の前に広がっている。僕たちはその豊かさに気づきさえすればいい。そして静かに耳を傾ければいいのだ。僕たちは未だに糸芭蕉や紅露や福木といった植物が何故あんなに鮮やかな色を輝かせるのか、何ひとつ知らないし、植物の種も、光も、風も、生き物も、何一つ作り出すことすら出来ないのだから。
 
「つくる」よりも「受けとる」こと。それが生きることであり、本当の「幸福」なのだと思う。そんな目に見えない原始の世界を、神の領域を、ヴィジュアライズするという意味において、石垣昭子さんと茂木綾子さんはとても似たお仕事をされているのではないだろうか。この作品は「幸福」についての映像詩なのだと、僕は思う。
 
(茂木綾子監督作品『島の色 静かな声』に寄せて / 『COYOTE』 No.36 特集『海は学校』に掲載)

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