鷲尾和彦

生まれてくる言葉たち

1) 宮城県気仙沼市(2011年5月7日)
津波で壊されてしまった防波堤の上で、彼女たちは霞がかった春の海をみつめていた。二人は姉妹。姉は仙台で働いている。妹は今年から東京の大学に進学し一人暮らしを始めていて、久しぶりにこのゴールデンウィークに再会し、一緒にこの懐かしい浜辺にやってきていた。防波堤のすぐ先にあった彼女たちの家は流されてしまっていた。僕は数年前にこの浜辺を何度か訪ねてたくさんの写真を撮ったことや、ここで漁師の方をはじめ多くの人々と出会いこの海が持つ豊かさを学ばせてもらったことを二人に話した。すると彼女たちは、「どんな写真でもいいからこの海の写真を送って欲しい」、そして「どんなことがあってもこの海が好き、決して嫌いになったりしない」、そう言った。僕はかって撮影した写真を彼女たちに送ることを約束し、荒れてしまった浜辺を背景に二人のポートレートを撮影した。ファインダーの中で、彼女たちの表情は海からの照り返しを受けて輝いていた。これから様々な復興計画が立てられていくだろう。それを推し進めていく力は、その土地への愛着、つまり「その場所が美しい」という感性であって欲しいと思う。その感性から始まること、その感性が広がる方向へと向かっていくこと。そんなマインドセットが大切ではないだろうか。今、もしも写真に出来ることがあるとすれば、こうした感性を遠く離れた人とも共有しあえる手段として機能することだと思う。目の前の荒れてしまった光景は束の間のものでしかない。その土地を愛する彼女たちのような存在が、その感性が、きっとこれからの未来を創ると思う。
 
2)宮城県石巻市(2011年7月18日)
海の日に、金華山へ向かった。牡鹿半島最南端沖に浮かぶ周囲26キロメートルの島である金華山は、島全体が黄金山神社の御神域であり、三陸の漁師にとって海上での安全と大漁をもたらしてくれる「ヤマ」として長く崇められてきた。
 鮎川港からモーターボートで渡ることができたものの、事前に「上陸は2時間以内、朝9時から11時の間」と指定された。桟橋が震災の影響で地盤沈下していて、干潮時のわずかな時間にしか船を着けることができないためだ。
 海鳥たちの群れに埋め尽くされた船着き場。黄金山神社の境内では、崩れ落ちた常夜燈の脇を親子の鹿がゆっくりと歩いていく。夏の眩しい陽の下、人の営みと自然との境界線が曖昧のままさらしだされていた。
 「ヤマをたてる(あてる)」という言葉がある。それは沖に出た漁師が目印となるヤマを見ることで、海上の船の位置を知り、航路を見定め、漁場を探し当てることを指す。
 大海原で小さな船や人はたえず波に揺さぶられ続ける。揺られながらも視界の中に不動の一点としてのヤマを見続けることで、いのちを守り、糧を得、故郷にたどり着くことができた。見つめ続けると、ヤマも見返した。それはヤマの向こうに暮らす幼子や嫁が海のかなたを見守るまなざしでもあった。見ること、見返されること。そのつながりが繰り返されることで、ヤマは「聖地」になった。
 漁師たちはヤマの頂きが見える領域を出て漁をすることはなかったという。見る=見返される関係が維持される領域だけが、ヤマの御加護が及ぶ範囲なのだ。 それが知恵であり、技術であり、生き方だった。今、僕たちは技術や知恵を学び直そうする潮目にいる。揺さぶられながら、それでも故郷へとたどり着くために。
 
3) 福島県相馬郡新地町(2011年8月3日)
海の向こうから漂いだした濃い霧はあっという間に砂浜を覆い尽くした。これが夏の三陸海岸特有の「海霧」なのだろうか。視界が不明瞭になると、場所の感覚だけでなく時間の感覚まで見失いそうになる。どうやら波打ち際を二時間近くも歩き続けたようだ。今はもう県境を越えてしまったかもしれない。砂浜はさらさらとして柔らかった。この数ヶ月の間、ただ静かに波と風とが砂浜を洗い、新しい砂や貝殻をゆっくりと運び続けたのだろう。不思議なくらい優しい色に感じた。しばらくすると、霧の向こうの波打ち際に小さな子どもがひとり立っているのが見えた。しかし近づいて行くと、それは砂浜に突き刺さった一本の太い松の枝だった。濃い霧の中、ひとけがない砂浜で僕は周りとの様々なつながりを見失ってしまっていた。どうしようもなく寂しかった。 ふと足下を見る。柔らかい砂の上にくっきりと僕の足跡だけが残っていた。それはまるで子供が描きなぐった壁の落書きのようだった。的確な言葉も、伝えるべき相手も見つからず、ただ「ここいる」というためだけにかろうじて存在する、あの不器用な落書き。ここに居て、何を撮り、何を見ることが出来るというのだろう。この沈黙を感じることの他に、静寂の音にじっと耳を澄ます以外に。僕は目の前の折れた木の枝と同じだった。あれからもう二ヶ月が経とうとしている。しかし、あの砂浜に立ち尽くした日のことが忘れられない。あの感覚は僕の中の深いところに入り込んで立ち去りそうにない。しかし、それでいいと思う。その感覚を手放してはいけない。決して手放してはいけない。これから迎える日々のために。
 
4) 岩手県釜石市(2011年11月5日)
気仙沼から大船渡、釜石、宮古方面へと海岸線沿いを北へ向かう。夏草が生い茂ったまるで原野のような風景が、再び枯れ草や茶色い土に覆われた荒涼とした風景へと移り変わっている。この春から幾度となく通った道。しかしそのたびに目の前の風景は異なる様相をみせる。自然が剥き出しになったこの場所では、季節の変化がより鮮明に見えるのかもしれない。 もうすぐ冬がやってくる。気仙沼の本吉海岸では、壊された防波堤や松林がすっかり撤去され、かわりに大きな土嚢が何百(あるいは千以上?)も積み上げられていた。その大きさに圧倒される。道々では多くの土木作業員の方々が黙々と仕事をする姿に何度も出会った。削り取られた岸壁の先で出会った測量士の方々と少しの間だけお話をさせていただいた。 途方もない大変な仕事が続いていくことは確か。しかし、それでも出会った彼らはとても静かで穏やかな表情をしているように感じられた。どうしてなのだろう。自然と人とがふたたび関わろうとしていく、彼らがその最前線で働いている人たちなのだと気付いた時、少しだけその理由が分かったように思えた。
もちろん、どうにか瓦礫の撤去が進んでいるものの、その先はまだまだ手つかずという場所も圧倒的に多い。土台だけが残る住宅地の跡が続く場所を歩いていると、突然、白い二本のつややかな木々がすっと立っているのが目に入った。 それは午後の日差しを受けて光っている真新しい小さな鳥居だった。 土埃に覆われたモノトーンの世界の中で、そこだけ空気の流れが違うように感じた。新しい息づかい。新しい呼吸。もうすぐ冬がやってくる。そして冬は、次の春を迎えるための季節なのだ。
 
5) 宮城県山元町(2011年8月3日)
東京都港区のギャラリーAKAAKAで、震災による津波被害を受けた写真約1500枚(*要確認)を展示する「LOST&FOUND展」が開催されている。この写真を収集した「思い出サルベージ」プロジェクトは、津波で流され泥をかぶってしまった写真を洗浄し複写し、その写真の持ち主に届ける活動を行ってきた。昨年8月に宮城県山元町の活動現場を訪問したとき、1枚1枚いたわるように写真を洗い続けるスタッフの方々の姿に強く心を動かされた。日常をとらえたその膨大な枚数のスナップ写真には、 何が写されているのかはっきりと分からないものもある。人物が写っていてもそれが誰なのかも判明しにくいものもある。しかし、たとえ「像」が損なわれても、そこに写し出された存在の「影」は決して薄れたようには感じられなかった。むしろその1枚1枚の中には、多様な物語や時間や記憶が幾重にも積み重なり存在しているということを強く感じた。それは、流され、変色し、損傷し、削りとられてしまった不鮮明な「像」の向こう側に、今目の前には見えない存在を「見ようとする」、見る側の視線と想像力とが呼び起こされるからに他ならない。「見る」のではなく「見ようとする」こと。見えるものだけではなく、見えない存在を想像しようとすること。その時、時も場所をも越えて出会うことが出来るかもしれない。それも全て私たちの想像力しだいなのだ。
 
6) 神奈川県逗子市(2012年3月11日)
2012年3月11日。いつものように、近くの海辺へと向かう。すっきりと澄んだ青い空は伸び上がるように高く広がり、春めいた陽気が温めた砂浜の上を、ときおり強い風が駆け抜けていった。眠っている小さな娘を抱きかかえて隣を歩く妻の写真を撮る。いつものように。すでに多くの人たちが砂浜に集まってきていた。ウエットスーツを着たサーファーたち、家族づれ、子どもたち。人々に囲まれるようにして、その上で白い花束が風に揺れていた。どこからか声がして、その時が来たことを知らせる。目を閉じる。海風の鳴る音だけが通り過ぎていく。この1年の間に、この目で見て来た風景が、出会った人たちの顔が次々と立ち現れてくる。それは、自分自身でも予想もしていなかったくらいに。記憶が確かに今自分の中で動き続けていることを実感する。そのためにこの1年があったはずだ。記憶は私を見ている。記憶は私を試している。今日ほど、多くの人が海の向こうに思いをはせた日はなかったかもしれない。この瞬間、日本各地の海辺に立って目を閉じている私たちは確かに「何か」を共有している。お互いの姿が見えなくても。たとえ彼の地から離れていても。いっせいに海へと漕ぎ出すウインドサーファーたち。帆を潮風えいっぱいにはらませた小さな舟がいくつも飛ぶように進んでいく。波しぶきが舞い上がる。静止した時間が再び動き出す。時間を進めるその舵をきるのは、ここにいる私たちひとちひとりなのだ。
 
7) 宮城県気仙沼市(2012年6月27日)
この海にまた戻ってきた。離れていても忘れることはない。たくさんのことの、そのひとつずつを思い続けることはとても難しいけれど、ひとつだけならこの私にも出来るかもしれない。だから、何度でもここに戻ってくる。戻ってきたいと思う。それでも、訪ねるたびに少しずつ海は変わっていく。人と自然との関わりも少しずつ変わっていく。今日は初めてこの海で波乗りをする人達を見た。地形が変わったために、新たなサーフスポットになったそうだ。「ボードを持ってここに来るのは今日がはじめてだよ。まあこの町では他に何もすることがないからね。」浜に上がったばかりの彼は呼吸を整えながら、それでも張りのある声でそう言った。家族でこの海を眺めに来ている人たちもいる。手をつなぎ浜辺を歩くその姿を見て、海沿いの町に暮らす自分の家族のことが重なる。誰もが穏やかな微笑みを浮かべていた。しかし言葉を交わし、この近くに住んでいる彼らが皆、今日この海に1年3ヶ月ぶりに来ていたことを知り、驚いた。時は私たちを運んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。私たちは同じ場所に留まることは出来ないのだろう。その人たちの1年3ヶ月という時間を私は知る由もない。それでも、今日この日、この海を見るために誰もが来た。その光景だけは、確かに目の前にある。 出会った人たちの微笑みは、柔らかく私に突き刺さる。すぐ隣の漁港近くでは、海鳥たちが産卵の時期を迎えていた。幼い雛鳥は親の胸元に隠れながら恐る恐る外の世界を眺めている。親鳥たちが飛び交う様子を浜辺から見ている父親と子に出会った。少年は父親の手をしっかりと握りしめている。私は声をかけることもなく、二人の姿を、その時間を、見つめていた。 
 
8) 福島県福島市(2012年12月1日)

初雪が降る頃には、もう冬の渡りの季節はとうに始まっている。あの阿武隈川の白鳥たちもやってきている頃だろう。記憶を頼りにいつか訪れた飛来地へと向かう。そこは住宅街の細い路地を抜けた先にある小さな河原。近隣の人たちが河原を整備したり、餌を運んだりした結果、白鳥たちが毎年律義にもこの小さな河原にやって来るようになったそうだ。しかしみぞれ混じりの雪の中、やっとたどり着いたものの、白鳥たちの姿はそこにはなかった。あの日以来、手入れされることなく伸び放題になった薮が河原まで近づく道を覆い隠してしまっていた。阿武隈川沿いをさらに移動すると、少し開けた川岸に、20羽以上の白鳥とその何倍もの鴨たちが集まっている場所を偶然にも見つけた。灰色の羽毛をまとった白鳥の子も数羽混じっている。翼を広げ、伸び上がり、じゃれあい、のどを震わせ、水に漂うその白鳥たちの中に、右の翼が大きくねじれた一羽の白鳥がいるのに気付いた。翼の羽根が損なわれ骨が剥き出しになっている姿は、まるで何本もの矢が突き刺さったように見える。それが何を意味するか記すまでもない。夏も冬もここを動くことなく、ときたま現れる人間たちから食べ物をもらい続け生きていくしかないだろう。一人の少年がその翼の折れた白鳥をじっと見ていた。その手には食パンが握りしめられている。「あの白鳥はきっともう飛べないだろうね」。え、そうなの?と少年は応えた。「でもこれはあっちの灰色の子にあげる。だってあの灰色の子はまだ子供なんでしょ。」そういって、彼はその白鳥から目を離した。翼の折れた白鳥から目を離せない僕の中で、何度も少年の言葉がぐるぐると廻り続ける。渡り鳥たちを見に訪れた人々の中で、その白鳥に気付いている人はあまりいない。あるいはもうみんなが気付いているのかもしれない。誰もが冬を越えていこうとしている。
 
9) 宮城県気仙沼市(2013年2月24日)
この冬一番の寒波が降らす大粒の雪が鈍色の海へと吸い込まれていく。 もうすぐ2年が経とうとしている。そのあいだに何度この海を訪れたことだろう。
昨年末に東京での公演を観たことがご縁で、「気仙沼演劇塾うを座」の練習風景を拝見する機会を頂いた。降り続ける雪の中、海辺から練習場である気仙沼駅前にある公民館へと向かった。「うを座」に参加している小学3年生から高校3年生まで7人の子どもたちが待っていてくれた。
「今だから、あなただから、伝えられることは何? あなた自身はどう変わったの?」
3月末の公演に向けての練習の初日。子どもたちを指導するKさんは、半日をかけて、そのことをひとりひとりに問いかける。子どもたちはKさんが投げかける言葉に真っ直ぐに向き合い続けてく。
子どもたちも、大人も、私たちはみな同じ壁に突き当たっている。 どうして私たちは忘れてしまうのだろう。 どうして言い訳ばかり探すのだろう。まだ間に合うだろうか。「あなたたちが感じていることはどれひとつ間違ってはいないの。」
5時間が経とうとしていた。外はすっかり陽が陰り、積もったばかりの柔らかな雪の上に蒼い影を落としていた。
「人に頼ってもいいんだと思いました」「やりたいことはやりたいって言えるようになりました」「思いを伝えたいという心が大きくなりました」。
今ここで生まれようとしているのは、新しい「コトバ」の萌芽かもしれない。 時がもたらす忘却に抗い目の前にある分厚い壁を突き破ろうとするそれは、しかしとても小さくて消え入りそうだ。だけど、未来を呼び寄せるのは、そんな小さなものたちなのだと信じている。
 

 
(産経新聞・連載「After 311」 2011-2012年 )
 

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