鷲尾和彦

創造的に生きる

私たち一人一人の中にある「創造性」。それは私たち自身を閉塞感から解き放とうとするポジティブなチカラ、生きるチカラだ。定常期を迎えたこの社会で、私たちはどのようにして創造性を活かし合い、豊かさを分かち合うことができるのだろう。

2011年9月から12月にかけて、ロンドンのヴィクトリア&アルバート・ミュージアムで、『Power of Making (つくることのチカラ)』と題された展覧会が開催された。この展覧会では、手から手へと受け継がれてきた伝統的なクラフト(工芸)から、新素材やテクノロジーを活かした冒険的で斬新なアイデアまで、様々な人の手がつくりだした「モノ」たちが世界各国から100点以上も集められた。英国の職人たちが作り続けてきた仕立て靴や、日本の三徳包丁。世界初というナイロン(合成繊維)製のパーツで組み立てられた自転車。新素材「Bio-Suit」を活かしたまるでアスリートウェアのような宇宙服。生身の肉体に近づけるのではなくファッショナブル性と機能性との融合を試みたカーボンファイバー製の義足。レディ・ガガがステージで使ったというアヴァンギャルドなヘアアクセサリー。子どもたちが楽しみながら自由に使いたい玩具をつくりだすことが出来る「オンライン玩具製造ゲーム」、等々。様々な人たちの手がつくりだした「モノ」たち。そこにある創造力、冒険心、感性。またボスニアでの民族虐殺の被害にあった女性たちが、セラピーとして、生きる糧として編み上げつくった伝統的なタペストリーは、「つくる」ことが人間にとって大切な記憶や文化をつないでいく手段であり、何より「生きること」そのものなのだと気付かせてくれる。「つくる」ことは、人が誰かのために、そして自分自身のために生きる喜びを生みだそうとする営み、「Power of Making (つくることのチカラ)」は「Power of Living (生きることのチカラ)」そのものなのだ。

しかし、今、こうした私たちの営みを支える根幹が大きく揺さぶられている。エネルギー消費の拡大による経済成長という神話は崩れさった。グローバル化と情報化の恩恵を私たちは享受しているが、その一方では、多様性(生物的/文化的な多様性)に対して大きな負のインパクトを与えてしまっている。とりわけモノづくりにおいては、これまでの地域に根ざしたモノづくりの文化や仕組みがダメージを受けている。自然資源の枯渇、資源の高騰などはもとより、これまでの伝統的な技術と文化を継承してきた「つくり手」そのものが減ろうとしている。つくるための素材も、つくるための技や智恵も消えていこうとしている。それは私たち自身が自らの「生きるチカラ」を失いつつあることでもある。何かをつくりだしたいという人が持つ「創造力」が、私たち自身を閉塞感から解き放とうとするポジティブなチカラなのだとすると、定常期/低成長期を迎えたこの社会で誰もが豊かさを享受しあえるためには、わたしたち一人一人が持つ「創造力」と、それらをより上手くみんなで活かし合うという発想がとても大切になってくる。そのためには何が出来るのだろうか。どんな発想が大切なのだろうか。

過去30年以上に渡り、アート、テクノロジー、ソサエティという3つの視点から、「これからの社会に必要なクリエイティビティとその先駆的な仕事」を提案しつづけてきた続けてきた『アルスエレクトロニカ』(オーストリア・リンツ市)。芸術祭、ミュージアム、ラボなどの運営を通じて、世界的な「未来志向のクリエイティブ・ハブ」として大きな役割を担ってきた組織だ。年に1度行われる「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」は、世界最大規模のアートとテクノロジーのイベントであり、テーマは未来の社会を占う指標として注目されてきた。2011年の「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」のテーマは、『Origin – How it all begins(起源~それらはどのようにして始まるのか?)』。 新しいものごとはどうやってうまれるのか? 未来のイノベーションはどのようにして実現するのか? そこには世界的な激動期の中で新たな時代を創造していこうというポジティブな提案が含まれていた。メインイベントのひとつは、物質の起源、宇宙の始まりを研究しているCERN(欧州原子核研究機構)とのコラボレーション。アートとサイエンスの最前線が、垣根を超え、再び対話を始めていこうという意欲的な提案だった。またこうしたハイエンドの交流に限らず、フェスティバル自体では、子どもからお年寄りまで、さまざまな人たちの新たな「出会い」を促すとてもユニークなアイデアがたくさん用意されていた。例えば『Shadowgram(シャドウグラム)』という作品。これは、参加する人たちの「影(シルエット)」をかたどったシールをその場でつくるというとてもシンプルなアイデア。例えば「これからの未来をどうつくりたい?」という質問に対するアイデアを、漫画のふきだしのように書いて、自分のシルエット(影)とともに展示空間に貼っていくことができる。参加者一人一人の存在とアイデアがその場を楽しくクリエイティブな空間に変えていく。他の人のアイデアに刺激されてまた新しいアイデアがうまれていく。アルスエレクトロニカでは、こうした『Shadowgram(シャドウグラム)』のような作品を、「クリエイティブ・カタリスト(触媒)」と呼んでいる。多様な参加者が集まることで、みんなで共有する場所の魅力や価値が広がったり、深まったり、成長していったりする。それが「クリエイティブ・カタリスト」の条件だ。「クリエイティブ・カタリスト」は人の中にある「創造性」(クリエイティビティ)を引き出す。他者との出会いを誘発し、またそこから新たなアイデアや発想が芽生えていく。 それは、瞬間的な娯楽や消費のためにつくられる「アトラクション」(従来の広告クリエイティブもその中のひとつと言える)とは、とても対照的だ。既存の枠そのものを超えていく。異なる他者とぶつかりあう。そこには、人を開放していくポジティブなクリエイティブがある。リンツ市では、この仕組みを市民から行政への意見を集める手段としても活かしたそうだ。

2010年10月、BMWグループとグッゲンハイム財団が恊働で計画した『BMWグッゲンハイムラボ』というプロジェクトが発表された。『BMWグッゲンハイムラボ』とは、都市から都市へと自在に旅する移動式ラボ(研究機関)で、シンクタンク、公共フォーラム、コミュニティセンターの機能を組み合わせ、今都市が抱えている様々な課題についての意見交換やその解決のためのアイデアを共有しあう場を提供することが目的だ。2年間かけて、北米、ヨーロッパ、アジアの世界3都市を巡り、それを3サイクル繰り返すことで、延べ6年に渡るプロジェクトとして計画されている。2011年8月に米国ニューヨークでオープンした第1回目の「ラボ」のテーマは、「Confronting Comfort: The City and You(安らぎへの取り組み)」。これからの都市と生活環境のありかたを、建築、アート、科学、デザイン、技術、教育など、様々な人々との対話や恊働によって見つけ出していくことが目的だ。そこでは、100項目を超えるワークショップ、実験、討論会、上映会、屋外ツアーなど、多彩なプログラムが用意されている。また、その内容は、今後移動していく各地域固有のテーマに沿って設定されていくのだという。移動し続けながら、新しい土地に入り、そこで暮らす見知らぬ人たちと出会い、その中から本当に必要とされる実践的なアイデアやソリューションを生み出していこうとする。動き続けることで生まれる出会いの中から、お互いの中にある創造性を見つけ合い交換しあっていく。移動することは変化することであり、変化することで自分をいつでも新しくつくり変え自分自身を生かしていくことだ。そして、移動することは常に自分を「弱い」立場に置くことでもある。だからこそ、見知らぬ土地、見知らぬ文化、見知らぬ人たちから、私たちは大切なことを学ぶことが出来る。「強い」人は自分を変えない。自分を変えないから移動しても旅しても学ぶことは出来ないだろう。先行きが見えにくい時代だからこそ、むしろ積極的に自分自身の足で動いていくこと。移動し続けること、動き続けることでしか、これからは何も見えないのかもしれない。

「つくりだすものが、本当に人々の生活の中にとけ込んでいくことができるかどうか。それは、現場に足を運び、つくり手やその技術、素材など、ひとつひとつを丁寧に見ていくしかない。よく見ることで確信が持てる。ビジネス面での要請にも確信を持って応えられる」。昨年、イッセイミヤケの4代目デザイナーに就任した宮前義之氏は、一本の糸、一枚の布から大切にしたモノづくりを行ってきたイッセイミヤケというブランド、そして自身のモノづくりの信念としてそのように述べている。「よく見る」ことは、本当に難しい。それがあまりにも単純で当たり前のように思われる行為だからだ。しかしだからこそ、実は誰にでもできる創造的に生きるための最大の手段ではないだろうか。では、「よく見る」こととは、どういうことなのだろうか。例えば、世界的なデザインファームのIDEOは「エスノグラフィ」という行動観察による消費者調査を取り入れてイノベーション開発を行うことで知られている。「行動観察」と呼ばれるように、対象となる人の行動を、時間をかけてよく観察し、その気づきからアイデアを立ち上げようとする。これも、「よく見る」ための方法論のひとつだ。IDEOに限らず、現在では基本的なデザイン思考法のひとつとして、多くのデザインファームでも取り入れられている。しかし、「よく見る」には、もうひとつの大切な方法がある。それは、目の前にある「モノ」そのものをよく見るという行為だ。そのモノの佇まい、色、素材、肌触り。そのモノがつくられてきた背景や歴史。それがつくりだされるプロセス、そこに生かされた技術や、つくり手の技や智恵。そのモノをつくりだそうと思った人たちの願いや希望。モノを「よく見る」ことは、そうしたその「モノ」にまつわる様々な「コンテクスト」(文脈)を「よく見る」ことであり、感じとろうとすることだ。 「モノ」は、ただそこに黙って存在しているだけかもしれない。観察者は、そのものの触感、肌触りを、自分の手のひらで感じとらなければならい。だから「よく見る」ためには、その人の中にある経験や感受性、あるいは自分にとって何が美しいのかというような生活に対するその人なりの視座がとても重要になってくる。それがなければ、モノがあっても何も見えてこないのだ。「よく見る」というよりも、「よく見ようとする」こと。よく見ようとすることで、なぜそのモノが長く愛されてきたのか、なぜいま消えようとしているのかも見えてくるだろう。自分が作ろうとしているものが、実は新しいものでもなんでもないことが分かるかもしれない。あるいは自分が作るものに何が足りないのか気付くことができるかもしれない。つまり、「よく見る」ことは、自分にとって本当に大切なものを探し出すことなのだ。それが、自分の生活を作り出すとても創造的な営みになってくれる。自分ひとりではなく、友達と、家族と、そんな宝探しをはじめてみてはどうだろうか。その成果を交換しあってはどうだろうか。そんな小さな営みが積み重なっていくことが、本当は一番大切な創造的なことなのかもしれない。

ぶつかりあう、動きつづける、よく見る。 自分の足で動き、 いろいろな人たちと出会い、そして大切なものが何かよくみていこうとすること。「創造的」といっても何も特別なことではない。特別な人の特別な能力でもない。むしろ毎日の暮らしを丁寧に生きていこうとすること、その中で、美しいもの、楽しいもの、豊かなものを探して行こうとすること。そして誰かを分かちあっていくような生き方そのもののことではないだろうか。

(雑誌『広告』 2011年12月)

back