鷲尾和彦

無数の傍流の中に立って

 
「僕の心は裏切り者です」
馬を休めるために止まった時、少年は錬金術師に言った。
「心は僕に旅を続けてほしくないのです」
「それはそうだ」と錬金術師は答えた。
「夢を追求してゆくと、おまえが今までに得たものをすべて失うかもしれないと、
心は恐れているのだ」
「それならば、なぜ、僕の心に耳を傾けなくてはならないのですか?」
「なぜならば、心を黙らせることはできないからだ。たとえお前が心の言うことを聞かなかった振りをしても、それはお前の中にいつもいて、お前が人生や世界をどう考えているか、くり返し言い続けるものだ」
              (パウロ・コエーリョ「アルケミスト」より)

 
写真を撮るという行為は、「旅」に準えて捉えられてきた。
確かに写真家たちは様々な土地へと移動を続け、親しんだ日常を異化する未知の風景を撮影しては土産話として持ち帰ってきた。人々はその見慣れぬ風景に驚き、初めて聞く異国の話に心躍らせ耳を傾けた。言葉として定着する前にまず世界へと踏み出してみようとする、それは写真家たちのやむに止まれぬ衝動だ。そう言う僕もそんな衝動に突き動かされ、様々な土地を旅してきた。しかし、旅とは必ずしも物理的な移動を呼ぶとは限らない。なぜなら旅とは日常が異化される経験であり、その意味では、仮に一歩も動かなくとも旅をすることは可能なのだ。
 
僕が最初に発表した写真集『極東ホテル』は、海外からのバックパッカー達が訪れる、東京のとある一軒の簡易宿(ホステル)の中で、5年間をかけて撮影した「旅人たちの肖像」だった。
初めてその宿を訪ね、狭いロビーの椅子に座って目の前を行き交うバックパッカーたちの姿を見つめていた時、僕はまるで世界の真ん中に立っているような感覚に襲われた。そして、この場所こそ自分が写真を撮るべき場所だと直感した。そして、その日からこの小さな宿の中にとどまり、移動を続ける人たちの姿を見続けた。
様々な人々の存在が無数の小さな変化をもたらし、その宿は絶えず変容し続けた。例えば、SNSやセルフォン(cell phone)の普及がいかに人の行動を変えるかを痛感したのもこの宿の中だった。見知らぬもの同士があてもなく屯していたロビーの風景は消え去り、誰もが狭い「セル」(房)の中へと籠るようになったのを目の当たりにした。
一歩も動くことがなくても、いやむしろ、同じ場所に居続けるからこそ、変容し続ける世界を直感することができる。その経験が、今自分自身がなぜこの場所に居て、何を見ようとしているのかという問いに輪郭を与えていく。日常が異化され、そのズレの隙間から新しい「言葉」が生まれる。この場所を一歩も動くことなく、僕は旅を続けたのだと思う。
 
ネットワーク社会とデジタル化によって、すべての形態は流動化し、絶え間ない変容(トランスフォーム)の流れの中に晒されている。右肩上がりと呼ばれる一方向の成長を目指した時代はすでに終焉を迎え、登りきった頂きから、360度全方位に向かって自由な流れが駆け巡る時代へと変わった。主流は無数の傍流に枝分かれし流れ出している。
これから、「もう一つの選択」(オルタナティブ)とは、主流に抗う力ではなく、四方に広がる無数の傍流を重ね合わせ、結びつけようとする力のことを呼ぶだろう。よるべなく移動し続ける僕たちが再び出会う場所に立つこと。新しい可能性はそこから生まれる。
 
 
寄稿:「Standing in the midst of parallel streams」, 一般財団法人社会変革推進財団/HALLUCIGENIA Fes 2022, Zine/2022.03.
 

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