鷲尾和彦

リテラシーについて(池澤夏樹氏へのインタビュー)

– 池澤さんが2001年から始められたメールマガジン『新世紀へようこそ』は非常に大きな反響を呼びました。その後も『パンドラの時代』を経て、現在は『異国の客』というシリーズでメールマガジンは続いています。また、写真家の本橋成一さんとの共著『イラクの小さな橋を渡って』は、英語、フランス語、ドイツ語に翻訳され、インターネットのフリーダウンロードという形で提供されています。メッセージを「書く」「つくる」だけでなく、「届ける」という視点でも、池澤さんはメディア環境を積極的に捉えた刺激的な活動されていると感じていました。何故こうしたメールマガジン等の新しいメディアをもうひとつの表現の場所として考えられたのでしょうか。
 
確かに僕は作家であり、自分の意見はまず確実に活字になります。だから以前はメールマガジンを発行する必然性も感じていなかったし、インターネットも普通に通信の手段として使っているだけでした。しかし、あの「9.11」によってがらっと事態が変わってしまった。当初、日本の評論家も、マスメディアも様々なことを書いたし、誰もが意味づけのために走り回った。しかし、その様子を見ながら僕にはそれら多くの意見がとても見当違いなものに思えていた。特にNHKはひどくて、ワシントンの広報局にしか過ぎなかった。どうも違うんじゃないか、そんな苛立ちが徐々に募っていった。そしてその苛立ちはすぐに、この出来事について自分の意見を発信したいという「発信欲」へと繋がっていったんです。
そのころは沖縄に住んでいたので、身近な問題として沖縄問題には関わってきたけれど、もともと政治的なことに力を注いできたわけではなかった。沖縄の場合は、ある種恒常的な問題だから、週刊誌や月刊誌で書いても構わない。でも「9.11」の時にはそうはいかなかった。事態は緊急です。僕の中にあった強烈な「発信欲」、そして状況の変化をタイムリーに捉えていくためには必然としてインターネットという速いツールを選ばざるを得なかったわけです。
 
– 実際にメールマガジンを続けていく中で、メッセージの「届け方」について池澤さんが発見されたことはどんな点だったのでしょうか。
 
最初に気付いたのは、やはり読者からのダイレクトな反応についてでした。それも世界中から反応がある。何かファクトで間違えたことがあると、誰かが指摘してくれる。また受け取った感想に反応して次に書く内容を考えることもあった。そうした読者とのダイレクトな関係性というのは非常に面白かった。
あの時、外から見ると、日本はひどくズレた変な場所にいるように思えていました。世界があの出来事を、見ている視点と比べて、日本のメディアが伝えている内容があまりにも米国に偏っていた。最初は300人くらいから始まって、1ヶ月後には3万人程度にまで読者が増えていったのは、そういう日本と世界とのバランスの中で考えてみたいというニーズ、世界的な視点で考える土台を求めていた人たちに応えたからだと思っています。
それから僕が気付いたのは、メールマガジンにはそれに相応しい「文体」があるということでした。実はメールマガジンにぴったりなのは、「子供電話相談室」のような語り口なんです。噛んで含めて理を説いて説得していく、あのゆっくりとしたしゃべり方、あれが一番合っているって気付いた。
例えば、雑誌のコラムの場合、そのコラムは1冊の中の一部でしかないから全体の中でどうしても印象が希釈されてしまう。だからあえて挑発的に書いても構わない。僕の意見が気に入らない人はコラムを読み飛ばしてしまうことが出来るし、強く共感した人はそのトーンからこの雑誌を読み進めていくことが出来る。だから雑誌の場合は、ある程度きつい言い方でも構わない。
でもメールマガジンの場合にはそれは絶対に出来ない。何故なら、メールマガジンは裸の言葉がいきなり相手の手元に届いてしまうからです。賛成の人はいいけれど、反対の人は本当にそれに反発してしまう。そしてそういう人には逃げ場が用意されていない。正面から自分自身が否定されたように思ってしまう。インターネットはそんな「発信欲」がむき出しで歩いている世界だといえる。これはこれまでのマスメディアとは全く違うものです。
基本的に僕はインターネットを強く肯定している。それが大前提。物事を知るのはとても良いことだし、文字を作り、言葉を覚えて人はここまで来たのだから。でも同時に、個人と個人をつなぐメディアであることも強く意識する必要があると思います。この点を意識しないと受け手との関係は成立しない、つまり本当に社会のために活かすことは出来ない気がする。
インターネットのおかげで、確かに社会全体のフットワークが良くなり軽くなった。しかしその軽さ故に簡単にいきなり偏った意見にグッと動いてしまうこともありえる。一見民主的に見えるが実は量による支配が行われる危険性がある。それは「軽いファシズム」といえるでしょう。
民主主義というのは単なる多数決じゃない。結論に至るまでに、論理を戦わすステップがいくつも用意されているものです。しかしインターネットの場合は、そのステップを飛ばして、多数の暴力に簡単に至ってしまうことがある。しかも氷結した路面のように勢いがつくと止りにくい。それは「匿名性」のためです。匿名性は欲望を増幅させます。人の中に様々な欲望があるけれど、これまでは他者との関係においてバランスを保ってきた。しかし匿名だと外からどう見られているのかも意識しなくなる。直接会えないまどろっこしさとは逆に、やりたい放題に出来てしまう。 だから要所要所にストッパーを入れておかないと怖いことになる。ドミノ倒しでも最後の瞬間が来るまでは途中に何箇所もストッパーを入れておくでしょう。
 
– インターネットを肯定した上で、このパワフルなメディアとどのように付き合っていけばいいのだろうか、僕達はその具体的な手掛かりを探している状態にあると思います。本当に必要な「リテラシー」というのは何なんでしょうか。
 
これについては、まだ十分な議論とスタンダードが成立していないのかもしれない。僕も現時点では何か決めの一言を持っているわけではない。そういう危険性があるということを理解した上で使うしかないという一般的なことを言うことしか正直出来ない。
ただひとつ言えるのは、これはインターネットだけに完結した話ではない、という視点を持つことではないだろうか。普段の日常の生活の中に、その常識の中に、インターネットを位置づけていくというもっと包括的な視点が必要な気がします。
例えば、フランスでは小学校の時から研究発表が盛んです。図書館も使うし、自分で絵を書いたり、写真を撮ったりもする。もちろん知識を集めるためにインターネットも使う。どういう形でバランスよく世の中を眺めて、必要な場所から必要な情報を集めることが出来るか、そのための手段も含めて子供達には考えさせています。一人の社会人として、社会に関わる情報をどう集めるのか、そこが最も重要視されている。個別のメディアやツールとの付き合い方を学ぶ以前に、こうした日常生活、社会との関わり方自体を身につけることが必要ではないだろうか。
しかし日本はその点では貧しい。むしろ状況はひどくなっていると思う。社会への関心、社会へのもっと能動的なかかわり方、責任感や意識がまことに薄い。 このフォンテーヌブローという小さな町でも、大学進学資格試験の改正案が出たときに高校生達がデモを行っていた。すごくかっこ良かったですよ。日本の場合は選挙で投票してもしっぱなし。インターネットは匿名で、言いたいことも言いっぱなし。そういう軽さというのは他の国よりも危ないと思う。
成熟度という言葉は軽々しく使いたくないけれど、そういう軽さは子供っぽさに繋がっている気がする。
新聞を見ていても、関係ないやって感じになってしまう。逆に自分に向いてくる意見には、とたんにヒステリックになる。どうして日本という国はこんな閉じてしまっているのだろうか。
フランスにも勿論良いところと悪いところがあると思うけれど、こうした面に関しては信頼できる。今だって、その気になればストライキなどの手段でいつでも政府を追い詰めることも出来ると皆思っているし。実際に1995年の交通ゼネストでは、3週間も交通機関が動かない中で皆不自由な生活をしながらもストを支持し続けた。何かあった時の拒否権を国民の側がしっかり持っているわけです。
最初から大衆は大衆、インテリはインテリ、それはしょうがないんだよっていう日本のような考えの国と、フランスのような国とではやはり国としての運営に差がでてきます。
インターネットと直接に関わることではないように思えるけれど、しかし実はこうした点まで含めてインターネットやメディアを社会全体の中で眺めていく必要があるのではないだろうか。それがリテラシーということだろうと僕は思っています。
 
– バランスをとりながら世界を眺めたい。そして主体的に社会と関っていきたい。『発信欲』という言葉にはそんな意味と意思が込められている。あくまでも主体的であること、それがポイントだ。
「『発信欲』という言葉は後で思いついたんだよ。」と、池澤さんは教えてくれた。それ程に強い衝動に突き動かされながら、世界を「見る」ために、そして自分の言葉を「伝える」ために、池澤さんがキーボードを打ち続けた姿を僕はイメージすることが出来る。インターネットが世界を変えることなどない。世界を変えるのはワタシなのだ。個人にしか「社会」は変えられないし、同時に個人に至らないメディアは「メディア」として成立しなくなるだろう。『発信欲』と主体的な社会への参加へのモチベーションを持ち得ない個人は、そのどちらにも触れることは出来ないかもしれない。その視点に立って、僕は今自分に出来ることを構想していきたいと思う。 (鷲尾和彦)
 
(『編集会議』 2006年 掲載)

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